最初の掲載誌 First published
In 1989, I was introduced in art magazine, and I wrote about my art works. This is the record.
走り出した頃……。
『ピタロスの不思議な動物たち』が誕生して、私は、自然の中で写真をとり、物語を作るようになりました。当時、関西に住んでいた為、手作りの作品集を【つかしん西武関西の手作り館】へ持ち込んだ所、作家担当の方が、私の資料を東京の西武百貨店のアート担当部署へ送ってく下さいました。それがきっかけで、当時、新進アーティストの登竜門だったアトリエヌーボ(西武百貨店池袋店)で企画展(個展)をするアーティスト候補になり、審査を受ける為に、更に詳しい作品資料を作成し、見本の作品を東京へ送りました。そして、「6か月後の企画展はあなたに決まりました。」と連絡を受けたのでした。
企画展の開催までの6か月間、アトリエヌーボを担当する飯塚由紀子さんに、私は沢山の事を教えていただきました。展覧会場の配置図は何度書き直したかわかりませんし、新しい作品も会場に合わせて作りました。以後使用することになる展覧会のタイトル『ピタロスの不思議な動物たち』、案内状はがきに入れたキャッチコピー『夢花の国からこんにちは』は、この時の飯塚さんとの真剣勝負の準備段階で生まれた産物です。1980年代は、糸井重里さんのキャッチコピーに代表されるようにセゾンカルチャー全盛期。飯塚さんは、文化発信の最先端を行く堤清二氏率いる西武セゾングループの一員として、来場者の視点や動線、興味、社会のムーブメントを捉えて新進アーティストのデビューを支えていました。そして、展覧会の準備進行と並行して、飯塚さんが力を入れたのがメディアへの発信でした。今では、インターネットでのSNS等が大きな役割を果たしていますが、当時はプレス資料の作り方を教わり、TV、ラジオ、新聞、雑誌へ告知の郵送を行った結果、展覧会の開催を前にして、TVの取材や複数の雑誌への掲載が決まりました。そして、最初の掲載が、この美術出版社の「デザインの現場」になったのでした。作家自身が文章を書くスタイルだったので、コンセプトを書くという良いきっかけになったと思います。今、読み返してみると、当時は、環境問題に結び付けて書いていますが、作品群は純粋に『ピタロスの不思議な動物たち』。以後、その時代時代で、心に引っかかっている事が、作品を生み出す原動力や社会への発信につながっていきます。それがアーティスト。今だったら何でしょうか…。
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